日記

とみいえひろこ/日記

訳のいくつか

それとは別にこの作品の美術的なイメージのすべては一枚の衣裳から発生した。それは主演の一人のレスリー・チャンが劇中で着ていたモヘア織りの黄色いストライプの毛がふさふさとしたセーターだった。私はこのセーターから受けるイメージをどうにかして表現できないかと考えていた。

フィオヌラ・ハリガン 石渡均/訳『映画美術から学ぶ「世界」のつくり方 プロダクションデザインという仕事』(フィルムアート社)

 

黄色っぽい、あの場面。あの、とぼんやり指される、指す、その、あの、がたくさん記憶のなかにあるはずで、どこか、といわれると明確にこれと言えないで、黄色のあの感じだけ残る、いつも。

 

 

片膝を立てた姿勢に見比べるアンデルセンの訳のいくつか

笠木拓『はるかカーテンコールまで』

 

 

子どもの頃は、訳されたひとつのアンデルセンしかない、知らない、と思っていた。ほかのアンデルセンがあるかもしれないということさえ思いつかなかった。いつか大人になって、経験によって、いろいろな訳され方があるということを知り、それらを見比べることを知り、自分のなかに見比べた何かを選ぶ可能性や選ばずにいる可能性があることも知っている。そう思おうと仮にいつか決めたらしい子どもの自分を棲まわせている。棲まわせる「場所」自体を大人と呼んでもいいんだと思う、ということ。

片膝を立てる私は大人で、私が脱ぎ去った子どものなかにかつて棲んでいた。「見比べる」とき、そこに目的があるのだろうけれど、それとは別に、見比べる目線のなかに、知らずに私が棲まわせているものがある、今も。何かを決めたほうの子どもではない、別の、人称ももたない、はるけさのような、老いと死のような、地獄のような、残酷さのようなもの。はっきりと場所ともいえないもの。場所をもたないもの。そういうことや、そういう感じは、忘れないように何度も確認したくなる。

 

抽いてくるのはこの歌でなくてもよかった。この黄色い歌集のなかに、好きな歌がたくさんあり、読み終わるということがない。印象がつよく残って、じっさいにどんな歌だったか何度も忘れる。何か話しかけているようだけど私に向かって話しかけているわけではないと分かっている時間のなかで落ち着けることがある。遠くから見ている風景のような複雑さ、奥行き。傷としての光。

 

 

僕を物語る人なし 喉首を空にさらして橋を渡りぬ

 

テーブルを拭う夕べはさよならをしなかったひとばかりが遠い

 

スプーンの柄に絡みつく銀の蔓憎むと決めて男を憎む

 

食卓につめたく透けてどのような過去から汲んできた水だろう

 

あづさゆみうわくちびるで牛乳の膜をひそりと引きよせている

 

笠木拓『はるかカーテンコールまで』(港の人)