こころねを語らむとする辺にありてあやしき賤の夕顔の花
すりへらしすりへらしゆく神経の線香花火ほどのあかるさ
丸薬がころがりゆける床下に水色の尾のごときもの見ゆ
冬瓜が次第に透明になりゆくを見てをれば次第に死にたくなりぬ
明るいところを見るんだな、と思う。いつも、ほんのり、まるい細い蝋燭の火が灯っているような印象が残る。長く灯って、細く遠い、冷えている。
もともと、光があって見える、ということだから、「見る」という行為はいつも、明るいところを見ているということだ、とも思う。
明るいところを見ることで、明るくない場所である自分、光源ではない場所である自分、でこぼこの影である自分の位置が感じられてくる。どの位置にいるか、どのようにでこぼこなのか、目にうつるものとの位置関係が、だんだん分かってくる。「語らむとする」ということは、ここの、この場所を彫り出してゆくこと。占めている自分の場所を減らしてゆき、素直に芯だけになる頃、「死にたく」なる思いを〈持つ〉〈抱える〉ことができる手や胸や、生のシンプルなキワの形が現れる。死と生がここの、この場所で出会う。死に会いにゆく生の場所であって、「次第に」という不確定な、さまざまな時間がずっと続く、繰り返す場所。
夏があって秋があって、冬が長い歌集。
『てまり唄』から
(『永井陽子全歌集』青幻舎)