日記

とみいえひろこ/日記

2021.06.06

磯野真穂『なぜふつうに食べられないのか』(春秋社)。

読み終えて本を閉じたときも、タイトルが大きく目に入る。タイトルの意味がやっとわかるし、大きく配置している意味もやっとわかる。読み終えた目に入ってくるタイトルの見え方が変わっていることに気づくのだ。「なぜふつうに食べられるのか?」いったいなぜ、ふつうに食べられるというのか? そう、つくづく思う。そして、たしかにそう思ってきた自分もいるように思う。言葉でさししめされ、意味付けされて現れるもの。

 

社会というかかわりの大集合とその大集合をまとめる文化という規範は、個々人のあり方に多様な形で浸透している。つまり社会・文化的背景を個人がまとうマントのようなものとみなし、それをはぎ取ったところにあるとされる「純粋な個人」(とその家族)に目を向け、そこを修正しようとするモデルは、人の食の内実を見損なうのである。

 

抜き出すと何万回もいろいろなところで読んできたし納得してきた言葉だと思う。でも、それをどの私が読んできて納得してきたのか、と思う。いや、どの私が読んできて納得してきたのか、というのも何万回も思ってきた、と思う。でも。

わたしはこの本をおそれながらかなり少しずつ読んだ。畏れのような感覚は見るべきところに光を当てる役割をもっているように思う。光が当たり、目に見える姿で現れてしまったものが抱えるのは影ばかり。