日記

とみいえひろこ/日記

2021.12.21

間違いがかならずあるのだということ。間違いがないと思っているところに、思ってすらいないところに、かならず、ほんとうにいくつもあるのだということを、分かってよ。そう言いたかった。言いたい相手のことをわたしが何も分かっていないのに、今わたしが言うのは違う。言う関係をつくれていない。

分からないと言うだろう。分からないかもしれないけれど、分かると決めるしかない。分かると決めて、分からないまま飲み込まないといけない。

 

シンビジウムというのだ、と、ずいぶん経ってその名前を知った。シンビジウムという花が、そのあたりではひとつしかない大きなスーパーで、透明のOPPのバッグに包まれてよく売られていた。黄色い金魚みたいな、造花みたいな花。そこに住んでいる人たちは何かがあるたびにその花を贈ったり贈られたりした。その花しかないから。みんなその大きなスーパーで買い、その花を贈りあった。

あるとき、あの子がくれたんだといって、部屋のいい場所にシンビジウムが飾られていた。

何度も同じ話をあのひとはわたしにした。朝起きて泣きながら、夜飲みながら眠るまで。話すうちに、納得がいったり泣くことが出来たり疑問が出てきたりする。ディテールを何度も話すことで痛みを体のうちに焼き付ける必要があったのかもしれないし、そうやって前へ進みたかったのかもしれない、その場に留まりたかったり、戻りたかったのかもしれない。シンビジウムの枯れきった姿をわたしは見ていない。枯れる姿もきれいだと数日一緒に飲みながら見ていた気がする。ぼろぼろにならないうちにあのひとが処分したのだと思う。

 

わたしは、ひっかかるところを泳がせておき、どこかで数日中に時間をつくり、どこがどうひっかかっているのかを考える時間をとることができるようになってきたと思う。

全部しない、という方法でそこに含まれる種からも遠ざかることを選んでいた。種があることを知りながら、する、ということができる状態になった。

ああ、種があるんだった。また同じところに落ちてしまうかもしれない。種があることを忘れていた。忘れてなどいなかったしいつも思っていたけれど、こうやって進んできたことが種との再会に直結するなどということが有り得ないということにしたかった。

このまままた同じところに行くこともできる。慎重に近づき、自分のいる位置をさぐりながら同じところを見て、分かることもできる。