日記

とみいえひろこ/日記

2022.06.26

これは自分の苦しみじゃない、この苦しみをどこまでいっても自分の苦しみにたどり着けないのに、というか、「のに」ではなく

たどり着けない障害物としての、痒かったり恥ずかしかったりここにとてもいられない感じ(これらは盾でもあった)、とにかくこれらの感じに覆われる、動けなくなる。動けなくなるうち

それらのことに意味があって動いてはいけないような気になってくる(これも)。苦しみの受け取り方を間違って、べつの苦しみを苦しんでしまっていることはわかるのに、なにか抜け出せない。ただ、これをまず苦しまないとあなたがわたしのこの苦しみを苦しんでしまう。誰もそれをわかりすぎるほどわかっている。また同じことになってしまう。

という沼に足をとられているうちに完全に見えなくなり時間切れになってしまったものがある。どんどん増える。

わたしが出会って抱えるはずだった苦しみは、もう、ないのかもしれない。苦しみは行ってしまって、わたしが間違って出会って抱えているものはただのからっぽの重さだ。からっぽがからっぽを抱いている。

ないのに、外にはある、時間を外れたところにはある。苦しみを

拾う、受け入れる、抱く、蹴る、たたく、さわる、そんなことはもうできない。もう、過ぎてしまったことで、身体が受け入れることができなくなってしまった。ただ

ここから見つめるという関わりがあってしまう。それをひとりでやるしかなく、もう見つめ方もわからない。見つめ方を教えてもらうこともかなわない。やってみてもそれが合っているかどうかもわからない。あるのに、扱い方がとても難しくてわからない。

苦しみが誰かに抱えられたがっているとして、誰がどうやったらそれを正しく扱うことができるのだろう、なぜ苦しみをめぐることはこんなに絡まってしまうのか、なぜほんとうの苦しみにずっとずっとたどりつけないのか…立ち止まっても、休んでも、その先に進めない。こういうことがよくある、こういうことばかり。

 

そういうことをぼんやり考えながら、今日この本を読み始めた。

茶褐色の履物の横で、カササギが羽の付け根に嘴を突っ込んで死んでいた。
猫のナビが捕まえたものだ。ナビは四日前には雀を捕まえてきた。この世に生まれてまだ何も掴んだことのない赤子の手のように、小さくか弱い子雀だった。ちょうどその頃彼女は通りで飛ぶ練習をしている雀の子を見たところだった。木の一本、草の一株も生えていない日陰の通りで、子雀は飛行と墜落をのべつ繰り返していた。

キム・スム 岡裕美/訳『ひとり』(三一書房

 

どうして、この目が見ている風景に惹かれてしまうのだろう。またこういうことになってしまう。どう惹かれているのだろう、なんでなんだろう?

苦しみという何か、見えない大きな大きな、地面を這う霧のような気配のそばにいながら見る風景

といっても、この目以外の誰もそんな風景を見なかった。通り過ぎた。あまりに見る価値がなく、時間がなく、誰もが自分の身をまもることでせいいっぱいであるために。その、それらの、ほかのものには見られなかった風景を、繰り返し見る。幾層かの作業と時間と人を経て見る、霧の息を浴びる、この感覚に惹かれているのだと思う。放っておけなくて。放っておけなくて、というのは自分のために。

自分のものじゃない苦しみに苦しむということはとてもよくある、その苦しみ方はどれも似ているように思う。似ていながらぜんぜん違うはずとも思う。受け入れ難い苦しみを苦しむものが見る風景をはさんで、苦しみを時間にのせて分けていくこと、扱うこと、そこに関わっていくことに、人はたぶん惹かれるはずだと思う。自分の苦しみを扱うための指だったのに、抱くための腕だったのに、抱くことがかなわなかった腕の存在に気づく時間を必要とするために。自らのからだを自由にしていく時間をもつことや方法を考えることを必要とするために。