日記

とみいえひろこ/日記

2023.1.1

たくさんの傷がひらかれ、生み出されたいくつかの答え、それは誰の答えだったか、与えられて託されたものを私はいつどこにいるどのような「非当事者」として、どのように受け取っているのだったか。どのようなポジションにいるのだったか。放り出されて今ここから、どのように読むのがいいのだろう。読むために引っ掻きひらいた自らの傷口を、私だけはどこかで知っているとして、どのようにもうない場所につながっていけるのだろう。生み出された答えはたしかに答えであるけれど、どれも、私が横取り出来る答えではない。横取りしていいよ、と与えられているものの、どれもここからでは歪んで見えてしまう。だからいつも難しいのだと思う。どうにかして奪わなければ答えはわからない。

表象という言葉は代表という言葉とつながっているという。

この小さな本を読んで、潜在という状態が自閉に通じていると思った。では、私は、どのようにしたらここには見えない潜在という生き方を殺さず「代わりに表す」ために渡る橋と出会えるだろう、または、つくれるだろう。

 

けれども、こういってよければ、いっそうちいさな実存をもつ存在がある。スーリオはフィクションの存在よりもいっそう繊細で、もろい実存類型を描きだす。すなわち潜在的な存在である。「ある事象が潜在的に実存するというのは、つまり実存しないということだろうか。そうではまったくない。だが可能的だという意味でもない。そうではなく、ある任意の現実がその自主を条件づけていながら、しかしそれをうちに包含することも、措定することもないということなのだ。この事象が外でみずからを完成させる。純粋な虚無の空虚のなかで、おのれ自身のうちに閉じこもる。壊れた橋や着手されたばかりのアーチは、崩落を潜在的に描きだすが、実現されてはいない」

潜在的なものの実存様式はいかなる情動にも依拠することはなく、われわれの信じる力からリアリティを受け取ることもない。そのいっぽうで潜在的なものは、純然たる虚無と混同されないようにする手段をもたねばならない。なぜなら橋を修復すること、曲線を延長すること、一瞬しか姿を見せない示唆を発展させること、つまりこれらの潜在性を実存させることは、一定の条件のもとでのみ実行されるからである。その条件は、実存している下書きによって部分的に決定されつつ、しかしこれらの潜在性じたいによっても部分的に決定される。このことが示しているのは潜在性が、たんなる純粋な非実存と混同されることはないということだ。

ダヴィッド・ラブジャード 堀千晶/訳『ちいさな生存の美学』(月曜社

 

難しく感じるけど簡単で当たり前なことを言っているのだと、書き写して思う。それをそれとして生き延び「させる」、と考えるとき、「させる」を考えるという条件のなかにいる私が出会うべき答えがあるし、出会い方がある、と感じる。それはひとつではないけどひとつで、闇雲では出会えない。とても遠回りだけど、その出会い方に出会うために雑多にひらかれておくということが、良いルートだとやっぱり思う。

 

一つひとつの潜在的なものには、それを不十分なしかたで表現するものを受け容れたり否定したりする特有のしかたがある。潜在的なものは、じぶんを取り巻く肯定や否定の継起によって精緻化されてゆくとともに、問題提起的(ふたしか)な存在ともなってゆく。

 

年末にたくさん本を買ってしまった。休憩したら回復する。何分休憩したら回復するのかはわからないけれど、休憩したらなぜかちゃんと回復するということを、体に覚えさせようとしている。休憩しながら、時間の使い方を現実的に少しだけ考えた。