日記

とみいえひろこ/日記

2023.02.23

ほんとうに知りたいことに出会えずいらいらしている。八つ当たりもする。期待して失望する。自分のなかでうまく対話できるようになればいいと憧れる。時間がなくてエッセンスを知ろうとするけれど、わりと多くの場合、エッセンスになって届いたものをありがたく私が受け取り知るとき、何もかもが本来のものから遠くかけ離れてしまっている。のだと思う。何かにとって(多くの場合私にとって)都合よく歪められたものを理解できたとしてもむなしい。ああ、ばかにされているんだな、と思う。ばかにされているのは、先にこちらがばかにしてきたからなのか、と思う。

 

ブランコが好きかと訊く。ブランコが好きと答える。「好き」と言葉にされて届いた答えは、訊いた側に取り込まれ解釈され、訊いた側が納得するための道具としての「好き」に変わる。

ここに答えが届く。ここというのはいつも外で、そこに答えが届く。答えた側の「好き」、というか、「好き」以前の、または「好き」を超えた何かは外に出られず、答えた側のつくりあげた鎧のなかに溜まる。答えがあるのに出られない。出られないことを答える側は(〈いつも〉、答える側は)経験を通して知っているから、できるだけ相手に疑問を持たせないように秘密を曝け出し、訊かれないようにし、好きなブランコに座る。

その一連のなりゆきを優しさと呼んでもかまわないだろうし、何という名前で呼ばれてもかまわない、関係ない。答えはこんなに奪われているのに、内側がぜんぜん空っぽにならない。〈いつも〉答える側に、ここはない。いつも、〈いつも〉でいる。

 

精神分析のゆくえ 臨床知と人文知の閾』十川幸司 藤山直樹/編著(金剛出版)

『生きていく絵 アートが人を〈癒す〉とき』荒井裕樹(亜紀書房

とてもおもしろくて、興奮して読んだ。

たとえば可塑性のこと。「強固な鎧」、「代理的皮膚」をつくらざるを得ない、「カオス」だらけの環境において、どうやって自分のなかに疼く可塑性を見出し安全に解放してゆく経験を得られるか。どうやって発達し得るか。「安全のリズムを持たない自閉症者が、分析状況のなかでカオスを制御するリズムを獲得しうる」ための、「安全のリズム」のこと。

苦しみ、という名前が外から与えられながら、与えられるからにはそれを受け取ろうとしながら、「苦しむ」という名前のない場所を通る。名前がないためにその「苦」は自分にも認められず、どんどん主張する、場所を占拠する。与えつつ占拠されつつ依拠する場所としての私と、「能動的な営み」として、どう出会うのか、という意味で取り出された言葉、「癒す」という働きのこと。など。