日記

とみいえひろこ/日記

ああとふ声が

のどに指いれればふれるばかりにてああとふ声がかたまりをなす

 

今日は、古い時代の外国の短編集を少し読んだ。集められたものを読んだら、ああ、この時代はゆううつを手がかりに、足がかりに、ものを見つめるということをさぐっていたんだ、と分かる気がした。ゆううつは、流れたり溜まったりしてある時空間を約束する。その場所で呼吸ができる。

歌は、ぶつぶつ切れる。流れも溜まりもしない。だから不安を呼び覚ます、掻き立てる。ふれるばかりで、それは熱のようなものと言えるかもしれないし、いやにまとわりつく触感のようなものとも言えるかもしれないし、どうとでも言える。歌はそういうものなのかもしれない。

ふれる場所で、れる、られるが混ざり、私は私でなくなり、あなたになり、ひとりになり、名前と離れる。呼吸が、声になって身体から剥がれ、でも、ああ、「ああ」というかたまりを捉えてしまい、捉えるという働きをする私に戻ってしまった。かたまりをなしてゆく「ああ」は、何と出遭って何を意味していくのか、どうもまたうまくいかない気がする、つまらないことになる気がする。くちをひらいてかたまりを出してしまった私が安易に思えて、ああ、と思う。思う内側の場所が追い詰められ、何かがその内側へ逃げ。内側はどんどん深くなり、暗くなる。狭くて、苦しく、立っていられなくなる。

 

平井弘『振りまはした花のやうに』(短歌研究文庫)