日記

とみいえひろこ/日記

2023.09.27

喉の感じが戻るまでもう少しかかりそう。まだ電話などで咳き込んでしまう。「体力」は使うためにあるんだなと思った。ふらふらするのはましになってきたけれど、こんな力のなさでまた走れるようになったりするんだろうか。

眠っても眠っても眠かった。この数日、仕事だけ、なぜかなんとかなった。体力を使って力が戻ってきて、ほかのことはもう全部ずっとキャンセルしたい、そういう気分になり、そういう気分は夢として片付けられていき現実に適応していくとどこかで分かっていた。

わたしはずっと、ずっと、自分のキャパシティの理想と実際の見極めのことだけを見ようとしてきたのだろう。

最近は、このひとの時間のこと。このことに見合うだけの時間が経ったら良い状態になる、適応できる、ということが、なんとなく見えてきた。見えなくても、そのことに見合うような落ち着きどころにいつかいける、という道理が、なんとなく分かってきた。外のひとに何も相談することはなかったようにも、何も意味がなかったようにも思ったりする。このひとのうちで過ぎる時間を、意味のあるものにするための努力をする、というだけでよかったのだと思うし、そこまでしか無理だろう。

 

眠りすぎて、夜中にへんに眠れなかった時間に『苦悩』と『ここにいる』を寝転がって読んだ。

王聡威 倉本知明/訳『ここにいる』。安っぽい、軽い、はかない、未熟な語りが「欠落」や「穴」のもろさ、弱さ、傷そのもののようだったりして、傷が傷を開ける、いじる。読んでいて微妙にいらいらしつづける感じも、気に「障る」感じも、寝転がって読んでいる自分の身体にいやに近く、ねばっこく、簡単にまとわりついてくる。妙に絵に描いたような「嫌」な考え方や言動だなと思ったりしたところもあった。絵に描いたような、わかりやすくなってしまったそれは、わかりやすくなってしまった時点で傷がついていて弱く、病んでいるということなんだと思う。台湾では『生之静物』というタイトルだという。『生之静物』、じっと眺めてしまう。

西田絵美『ケアの気づき』はミルトン・メイヤロフの『ケアの本質』をもとに書かれたもの。『ケアの本質』を読んでいなかったら私はどうなっていただろう、ずいぶん遠回りしていただろう。

 

つまり、前もって自分はいずれこの場所を失うんだって思うことで、その場所を懐かしく感じることもあるってこと。でもそうすると、ますますどうして自分はここにいるんだろうって気持ちが強くなっちゃうんだ。

王聡威 倉本知明/訳『ここにいる』(白水社)は、2013年の「大阪市母子餓死事件」がモチーフとなったもの。