そして あたしはあたしを愛した/あたしはあたしを激しく愛した
『死ぬことを考えた黒い女たちのために』ヌトザケ・シャンゲ 藤本和子/訳
ページをめくって、最後の一行。この一行の前には「あたしはあたしの中に神を見つけ」という一行があった。「神」のところは、文化や時代や環境や、いろんな違いがあって今ここでこれをだらだら読む私にはたぶんわからない感じなのだと思う。
「そして」、と、そのあとの空白が、大事なのだと思う。最後の一行に至るまでの道のりはまったくほんとうに自由であって、間違いも正解もないということ。ひとりひとりにとっての「そして」であって、ほかの言葉では替えが効かないということ。それまでのことすべてをどうにかして「そして」でつなげばどうにでもなるということ。「あたしはあたしの中に神を見つけ」の代わりにたぶんどんな言葉が入ってもいいはずだ。自分で見つけて、あるいは、見つけられなくてもこれにするしかないと決める時が来て、あるいは、時だけが来てどうにもならずそれしか選べなくても、自分にはその言葉でいいとほんとうに思えるなら、思うことにするなら、とても思えなくても飲み込むしかなくても受け入れて飲み込めるところにいるなら、そこにしかいられないなら、その言葉がいちばんいいということ。
「神」はわからないけれど、石牟礼道子の解説で書かれていた「内的必然」という言葉なら少しわかると思った。藤本和子の書いた「自己との和解」も。
そして、
藤本和子は書く。
そして、いうまでもなく、特定な言語とは、いずれは普遍的な言語に到達すべき前段階的な言語ではない。それは特権的なものであり、まさしくそのものの正当な存在英雄と権利において尊重されることを要求するのである。
「そして」はほかのところにもたくさん書かれている。いるはずだ、と思う。
黒いことは美しい Black is beautiful の標語は人びとを力づけもしたが、アフリカ風に髪を編んだ、きつくきつく編んだ彼女らは、いまや「美しい」とされることになった美しさの下で、泣いていた。
空白の(そして)
新たなる沈黙、さらなる孤独の中に置かれるようになっていたと。黒人の運動とは、まず民族全体の解放を第一にするのだよ、敵が誰であるか忘れるな、それに黒人の男から男たる所以を奪い続けてきた白人社会にあって、おまえたち黒人の女たちもまた、おまえたちの男たちを傷つけてきたのではなかったか、白人がおれたちを去勢するのに力を貸したのではなかったかという糾弾の言葉に、女たちは耳を覆った。
私の空白の(そして)
時が止まる。時がすこし、遊ぶ。
『苦悩』は、愚かと不合理の姿が書かれているのだと、何日か経ってそう思い、読み直したいと思う。