日記

とみいえひろこ/日記

2023.11.17

あれは何だったんだろう、あの時間は何の意味があったんだろう、今あれが何になっているんだろう、わたしたちのなかで。あれらのことは本人のなかにどういうふうに残っているんだろう。きれいさっぱり忘れて、残っていないかもしれないし、わたしだけがまだ具体的に断片を覚えている。わたしのなかでも意味づけされていない。このまま意味づけせず、忘れていくにまかせ、何でもなかった時間になっていくのか、でもたしかにあれは時間だったし、何かの意味だった。

交差点のところのこのカフェ、この寒さ、この暗い時間、どんどん暮れてゆく感じ。わたしは事務所に勤めていて、昼休みに自転車で家へ戻り、このカフェの近くの場所へ送り、事務所の帰りに迎えに行き。そのうちに、迎えに行ったときにもう少しいることにすると言い出し、それが続いた。よかった、楽しい場所が見つかりつつある。延長時間ぎりぎりまで、このカフェに入ってコーヒーを飲み、迎えに行き。そのお決まりのやりとりを何日か続け、やがてそれが習慣になった。ずっと自転車に乗って、常に急いでいた。帰りのこの時間が好きだった。ひとりでいて、心が休まったし、一緒に帰るのもわたしには特別で楽しかった。

新しい習慣を見つけて、身をはめ込むように調整していき、繰り返しながら自分たちの良いようにつくりなおし、それは独特の、それぞれ自分に合う唯一の習慣になりかけていた…と、思い出すとそう思うけれど、脚色が入っていてそうでもないかもしれない。ずっとこれが続くのは違うけれど、こぼれてはいない感じを確保できていた気がするのと、何かの意味だったし、何かの時間だった。あの一連の時間、手続き、繰り返し、という経験。何をやっているか分かっていなかったし、今も同じだけれど、方向性としては良い気がするから続けてみようという感じは片方にあった。もう片方で、このやり方が続かないことは明らかで、その先にどうしたらいいか考えるための猶予の時間だった。

ほかに何か、こぼれ落ちないために、また、この時間が何かではあることにするために、何なのか知るために、なんとなくしがみつきつつ確保していた場所で考え、検討した結果、お金と時間の理由で、何ヶ月かして習慣をやめてしまった。わたしから話して、いいよ、と受け入れてもらい、あっさり習慣がなくなった。全部そうだった。こちらが決めて、やってみて、こちらの都合でいずれ無理になる。こちらの都合は全部受け入れられる。

数えたら、もう6年ほど前のことになる。その後しばらくして、わたしは事務所をやめたんだったと思う。家で背中を向けて自分の仕事をすることになったけれど、やめる前も長く、種を蒔くつもりで同じことをやっていた。もっと背中を向けていたし、もっと荒れていてぼろぼろだった。このカフェの近くの場所へ通っていた当時もそうだったはずで、あれらひとつひとつのことが、今、どういう意味になって、何になっているんだろう。

方向はたぶん間違ってはいない気がして、何をやっているのか分からないでやっているのも同じ、意味は見出そうとしていながら、何かではある、それが、これらがわたしたちにとって何なのかを、身をはめ込んでいったり外れたりして考えようとしながらやっているのも同じ、全体的に、状況的に、長い目で見て、良くなってきているように思うのも同じ、分からないのも同じ。

「良い」というのの目安は自分のなかでけっこう確実にあって、それに沿って良いとか悪いとか思っている。ここはあまり説明できないかもしれない。言葉にしてみたらいろいろ穴が開いているかもしれない。

 

李承雨『生の裏面』、高森明『アスペルガー当事者が語る特別支援教育 スロー・ランナーのすすめ』、などなど。トリン・T・ミンハのもの、いつも途中から途中まで。