日記

とみいえひろこ/日記

2023.11.18

わたしは返しに返した。返しに返して、まだもう何年か返す。終わりが見えていて、終わったと思ったらさらにもう何年か延びるような、気もしている。これが終わらないような気がしている。終わることは、想像できない。

わたしはこれまでずっと、ほんとうに何もしていない。いつも、方法を思いつかないからだと思う。いつも、そうなったら、そうなんだと思い、いつも少し、そうなったことにどこかで安心する。それを一生やればいいんだと思うから。それをやっていればどこまでもいけると思うから。どこまでもそれをただやればいい。そのうち許されると思ってしまう、そう自分が思っていることにしてしまう。そういうところがあると思う。許されなければ、それはそれで楽になると思っていると思う。このあたりでいつも、裏返る。裏返るいつもの感じと同じなのかもしれない。お願いして、わたしがそう決めて、そうしてもらっているのに奪っている。もらう、奪う、その対象もここで変わるのか、触れた瞬間に何かが無理になり、一瞬で裏返る。裏返ったままいってしまう。返しに返していながら、まだまだ奪おうとする。ぜんぜん足りないと、持っているものを怒りにぜんぶ込める。込めて撃つ先が分からない。もうぜんぶ過ぎてしまって、撃つ先などはない。無理になり、無理になったことはわたしのもとに残る。

何かはしたし、何かはしている。ひとつだけ思いつく。何かを返していて、何かは返したということ。それだけはたしかで、わたしなりに少し実感がある。10年以上、もっとずっと。それ以前から。何に返してきたのか、何を返してきたのか。

何に返してきたのか。少しずつ相手が変わり、それでもどことなく似ていて、大した変わりはなく、どこも同じ。ということと、わたしが相手に一生会うことがないことは分かっている。それ以外は分からない。

何を返してきたのか。これも同じこと。

返す、返せる、ということと、返すことの自分のなかの意味が大事だった。それらが自分のなかで大事なことになっていくことに、意味があった。返す過程、その積み重ね。奪って自分のものにした意味と過程。積み重ね、経験。実際はわたしのものではないものをそうしたという、その空虚をものすごく欲しているのかもしれないとも今思う。欲しているというわたしの存在を確認しようとしているのかもしれないとも。空虚がつまって苦しい、目を外に向ける余裕がない、見えない。返しているのはいつも、わたしのじゃない。わたしが奪ったからあなたのでもない。返すというわたしの営みが、わたしにとってのあなたになるのを期待するわたしがある。

身代わりの章にまた来て、何年も読めず、とてもよく分かる気がするのに、ぜんぜん読めない。とてもよく、内側から分かる、知っている気がするのに。言葉になる前に知っていたことだという気がするのに。返すことを自分に見つける前のことも書かれているのかもしれないとも、こうやって読もうとしていると、思えてくる。