日記

とみいえひろこ/日記

2023.12.27

大人のほうが自由に選べる、決められる。わざわざ与えられず、いけるところまで名無しでやっていける。

どこまでもいけるけれども、どこまでいけばいいんだろうというところから出られないとき、これらのトラブルがどこから来るのか、拾い集めて自分で扱えるようにしようとする、見えるようにしようとする。外にあるこの名前に近いから、この名前あたりでいけばいいかもしれない。見えやすく、分かりやすい。この名前を補助線にすれば、どの方向にも説明がつくし、やりかたが分かっている。どう振る舞えばいいかも分かる。それは自分や自分たちの今の延長線上にあると思われる。それになれば、楽になるかもしれない。楽だ。一直線に見つかるタイミングがある。そうやって、たぶんほとんどのことについて、名前は見つかる。

同時に一直線に、この名前の意味するところが何かというのをその場に合わせて読んで、演じ切らないといけない、演じ切って認められれば卒業できる場所に来てしまう。と、思ってしまう。飲み込まれてその名前に認められようとしなければいけなくなるのがきつい、降りたい、加わりたくない。これでは同じことになる。

この名前でいこうと、それを選んだ瞬間に、そんなことじゃ全然ないはずのことを自分のものとしてしまおうとする。

用意されている名前を選んだ瞬間に、名前もかたちもなく、それでも唯一見つかりそうだった、また見つかっていたはずの方法が、一瞬で見えなくなってしまう。用意されている名前にももちろんなれない、ならない。名前とはそういうものではないからで、名前のほうはこちらに何も求めていないからだ。別ものだから。別の生き方をしているものだから。

『サヴェージ・ウーマン』アブナー・パストール/監督。そういうことを、思いながら、観ながら。

土屋葉『障害者家族を生きる』、岡田温司『アダムとイヴ』、石原吉郎『海を流れる河』、立岩真也 村上潔『家族性分業論前哨』、栩木伸明『アイルランド紀行』など。