死は絶対不在ではなく不在形式の存在だと、亡き者は「宿るという方法で存在」すると言えます。
高秉權 影本剛/訳『黙々――聞かれなかった声とともに歩く哲学』
「死」の意味するところはとても広く深く、たとえば、絶対に手に入らないものを含むだろう、戻らないものを含むだろう、届かなさや虚しさや、禁じられているもの、見てはいけないもの、思いついてはいけないものを含むだろう、選べなかったものも選べないものも選ばないものも含むだろう。受け入れてそれ以上はもういいと決めることなども。
こういう歌集をこっそりと読む。
見られてるのはお前だよ 陽のなかに老衰してゆく黄色のダチュラ
うしろから声かけられて振り返る榛の木が風に泣いてゐるだけ
背の傷を見せてあげよう資料館の朴の木に白い花が咲いたら
溶暗の山の谷間のこもり沼にわが呼ぶ声はとどきたりしか
白桃の和毛ひかれり老いびとの食みあましたる夢のごとくに
眉月は山に沈みぬほのかなる乳首の頬に触れくるときに
夜の雲は浮きてながれぬ人生の余剰のやうなしづかなる刻
ゆるやかに死へ流れゆく日常の淀みに燃ゆる庭のかへるで
米口實『流亡の神』(砂子屋書房)
とん、と、死や、死に似ているもののほうへ背を押す手、押す顔だけが見ているわたしの現在の背中、姿があるだろう。押される背をもつわたしには目の前に見えている限りの世界しかない。熱くこすれて、傷だらけで、ガタガタしていて立っていられない。踏ん張ってぎりぎり立つ足が歪んでどんどん痛い。でも、わたしにとってはこれだけが確かなもの。確かであり不確かであり、抱え切れる範囲で、信用できているもの。
べつにそこにとどまらなくていい。それは当然のことで、どこまでもいける、どこまでも落ちられる。とどまらなくていい、と覚えておくこと。言葉で言い表せない、死に似たそれはそれは広い深い場所があって、思い方や見方や考え方があって、そっちに身を任せる、身を任せざるを得ないほうへ行くこともできる。どこまで落ちても受け皿はある、あってしまう。それはそれで気持ちのよいもの。
とん、と、今にも押すかもしれない手のすずしさ、顔のつめたさ。そこに行ってしまったそれらの築いてきた形式でもって、それらがわたしの背を見ていることを想像する。そういう、うっとりする時間をもってもいいじゃないか、ゆるされるはずだと思う。
グレーの領域を、広げて深めてゆきたいと思いながら。