日記

とみいえひろこ/日記

牛隆佑『鳥の跡、洞の音』

五千年前から疲れているような夕暮れで それから そうだな 煙が上がる

 

土用東風すごくすずしいのに話したいだれかがどうしてもいないんだ

 

手になってしまえば殴るしかなくて手になる前のもので触れたい

 

 

「触れたい」と書くことすらも、作者にとっては「意味」や「内容」「メッセージ」といったものへの譲歩なのかもしれない。手になる前のなにかでもって触れるって、どうやるんだろう。私の知ってきた触れ方では無理で、「触れたい」ともまた違う、「触れたい」と書かれていながらほんとのところは未知の「触れた」さがここでは書かれようとしているはずだ。

言葉になってしまえば何かひとつの〈それ〉が伝わってしまう、衝撃をもって。衝撃でもって、言葉にならずにいたものを変えてしまう、方向づけてしまう。そうではなく、私もあなたも他の何者にもならず、分かり合えないまま、別の関わり方を探りたい、必要なら。

言葉になってしまう前のもの、何かになってしまう前の口ごもり、言いかけては黙る感じ、言い淀み、後戻り、打ち消し、はぐらかし…といったものに歌は満ちているのだと、それでいてこんなに饒舌なのだと思わされる歌集。わたしにとってはそうだった。折り合いをつける、つけられない、つかない、押さえつける、はみ出す、迷う、分裂する、疑う、依拠しつつ抗う。それらの動きそのものが言葉にうつされ、言葉がじたばたしている感じ。「それでも」「それから」「そして」「かとおもえば」「それはもう」と口にしながら手を伸ばしたり引っ込めたりする、「ここ」を確かめながら。

 

 

あとでさむくなるのだけれど春の雨 一つ一つの肌に心地よい

 

吸う音と吐く音があり吸うほうがわずかにすこしばかりさびしい

 

あなたの手を握りて歩くそれはもう子どもが鍵をはなさぬように

 

ひかりは時間を風が言葉を連れてゆく僕も何か言ったかもしれない

 

僕に分からないあなたのひとりごとにいつかかみ合う独白がある

 

岸辺というかなしい名前の駅があり電車は魚のように行き交う

 

 

トムとジェリーの歌も。「と」を外されて呼び直されて、そのことでこんなにそれぞれの孤独がにおってくるような感覚や思いがどこからか湧いてくる。不思議な風の空間が言葉の見えない働きによってすっと設けられる、あの、その歌も心に残った歌のひとつ。

 

 

牛隆佑『鳥の跡、洞の音』