日記

とみいえひろこ/日記

2024.01.19

『茶飲友達』外山文治/監督・脚本。

・最後のほう、ばらばらばらっと展開したところ。わあ、と静かに思いながらただただ見ていた。

・ルールと、良い悪いといった価値は関係ないと、ほんとうに思う。ルールはただただルールで、いちばんはじめのところでルールを守らない、守れないから、こうなったときにタガが外れて歯止めが効かないのは当たり前のこと、なんだけど、私なら最後、どうするだろう、いつどのように逃げるだろう。そこで人が見えるんだ、と思った。

もともとないルールを、あるということにして、なんとか守り合っている、なんとか共犯関係を結んでいる。人の、そういうもともとのさびしさやばからしさみたいなものも感じた。

・ルールがなくても誰かが残って責任をとる人が必要で、残った人が責任主体になる。それだけのことなんだ、とも。

・ルールが守れない、というところではじめから詰んではいる、から、はじめから人が見えてもいる。ルールが守れないなかで小さな守れるルールをつくっていくことが「善く」生きることなんだろうか…そんなこともないか。生きる技術をひとりひとりなんとか見つけていく、ということなんだろうか。

・何でつながっていたか、はじめに何によってつながったか、によって、ある程度先が見えてしまうものなんだ、とも。

・「自分のさびしさ(=貧しさ、無知さ、ものがなしさ、みたいなことととった)を他の人の孤独で埋めようとしてはいけない」という意味の言葉。孤独だけはルールが支配することができない場所、侵せない場所。

・画がきれいだった。