日記

とみいえひろこ/日記

2024.01.24

もういいかな、というところまで来たのかどうか。

なんにも意味がない、ほんとうに意味がない。どころか、逆のほうに引き延ばしたかもしれないだけだった。ほんとうにそれだけだった、長く長くかかってしまった。なにもない。情けないし、恥ずかしいだけのこと。なにもなく、情けなく、恥ずかしいなあと思っている。ほかにもあるかもしれない。

そうして、このあと、大きく変わることもなく、より悪くなるかもしれない。それはそれとして、少し、自分のなかで、位置どりやわたしが自分ごととして思う範囲、それらが常にずっと微妙に変わりつづけることを理解する隙間ができたように思う。自分のために自分を理解する。

 

‥‥は自分のため、旅にもっとふさわしい、べつの時間を考えなくてはならなかった。それが線的時間で、こっちのほうがずっと便利だ。

 

一秒はそれぞれちがう一秒であって、けっしてくりかえされたりしない。つまり、リスクだって、精一杯生きる望みだって、ほんの一秒も無駄にしないで、それを受けとめる。でもじっさいのところ、これはつらい発見だ。推移した時間がもとに戻らないとすれば、喪失と哀悼は日常になる。だから、こういう人びとの口からは、「むなしい」とか「尽きた」とか、その種のことばは聞かれない。

 

とはいえ、時間について、わたしはべつの見解をもっている。それは、旅人の時間はひとつの時間におけるたくさんの時間ということ。つまり、ひとそれぞれの、完全に多様なもの。

 

オルガ・トカルチュク『逃亡派』 小椋彩/訳

 

今日はすごく寒かった。雪が一瞬舞った。もういいかな、と決めようかな。決めどころというのはとくにないから。自分が何のために何をやっているか、ずっとよく分かっていた。

見えるものは傷のようなものだ、と納得する。それに似たもの、それに似た自分のものらしきものを分かりたいといってそれにならないこと。そういう欲の向け方をしないこと。何かやり方が違うと思うとき、ちょっと甘さが、いやな甘さがただよう。あまりに簡単だったり、すぱっと分かりやすすぎて気持ち悪い感じ。生まれそうだった問いがぜんぜん違うものになって、その場でなんとなく納得いったもののぜんぜん違うと気づく、ということは多い。