日記

とみいえひろこ/日記

2024.01.29

金井美恵子『小説を読む、ことばを書く』、霜山徳爾『人間の限界』、二階堂祐子 『生きられた障害』など。『生きられた障害』もたくさんページを折っている。

代わりに受け止め、引き受けさせることについて。私の迷いが深い(深まっていない。深まっていく余地のあるもの)のはこの一点かも、とも思う。この一点にまつわる、その前後、その間にあるものすごくたくさんの捉えきれないことについて。かもしれないな、と今日は思った。

 

今日なんとなく、自分のなかでやっと辻褄が合って少し分かったかもしれないことがあった。出来る限り正直に話すことを思うときでも、どうしたって人はそれぞれがそのときどきの役割を演じているという決まりがある。この決まりをわたしはよく理解していなかったのではないかということ。もしも自分の全存在を注いで正直に何かを話せたとしても、この決まりを超えることは絶対にない。ここ数日とくに、このことを実感することが多かった。

 

このふたつ、出来る限りの正直さと、出来る限り決まりを理解して正しく守ることは上手にやれば釣り合うのだろうとも思う。ただ、わたしが思ってきただろう正直さ(という言葉もちょっと、ぜんぜん違う)はいつも、その場においてはけっこう必要ないものだった、そんなこと相手は求めていないことだった。わたしが思ってきただろうことこそが、なんかややこしく後戻りさせたり停滞させたり見えなくしてきたのだと思う。

わたしのほうはわたしのほうで、話すうちに言葉のルールの力によって自分が役割にはまっていくことがなんとなく出来ている場合、自分にとってその内容が重要なものであるほど、「この着地でたぶんいいのだろうけれど、どこかが全然違う。こんなことで合意したかったわけじゃないし伝えたかったんじゃない。こんなことはぜんぜん答えじゃない」という感覚がつよく長く残る、それが積み重なる、ということを得てきたから、どんどん「やっぱり間違っているのではないか」というような考えが浸み出して気になる、という感じになりやすいのでは。

なーんだ、と思ったし、ここが理由だと考えてみればほかの気になる感じにも辻褄が合ってくる。