日記

とみいえひろこ/日記

2023.04.26

ほんとうに、私には難しくて、

嫌なことや無理なことのその、何が無理なのかという具体的なところや原因が分かるようになればいいと思う。それは本人にとって便利で、役立つから。言語に、ほかの表し方に出来ればなおさら。知らない相手のために、ではなく。知らない相手のために、という目的があってもいいけど、それがいちばんに来るのが違う、と私は思う。そこはこだわるところではないのか、そのあたりの解釈が違うからやっぱりどんどんずれて分からなくなるのか、私だけが分からないで前に進めずずっと関係のない私のことを説明しているようになってしまうのか。分からないところを自分で言葉なりほかの表し方に出来ないと嫌なことや無理なこととぴったりくっついて逃れられない上に、どちらでもないものから踏み入られてしまう。

そのほか、今(今というのは何十年も後のこと)本人にとってほんとうの課題は何なのか、力の入れどころは何なのか、また分からなくなり、同じことをまた聞かなければならなくなったり、どうしたらいいのかと思ったり、私が合意がとれてきたと思いかけていたことはやっぱりぜんぶぜんぜん違うのではないかと思い、どうしたらいいのか、立ち止まりしゃがんで考えなおした数日だった。

2023.04.26

分からせないように。そのことで、つよく刻まれ、憶えていられるように。糸のように絡まってくる物語の物語、ひとりでひとりの描き方を掘り出した手のこと。私の憶えていること、見えていることのうち、何も関係ないものはないということ。用意されていた心の動き方、その中身は、こことそこを埋めるものを掘り出していくことで独特のものになる、誰にも否定されず、理解されずに。ということ。タクシーの向こうにいつもの光、タクシーにもたれるようにして水を吐く人。タクシーと私の間までが私のさっきの範囲。間にいるものは私に見えない背景を見ていた。私には、間にいるものには見えない、けれど彼が感じとっていながら言葉では表さない背景が見えていた。

独特のものになった感情は、少し遅れて名付けられるかもしれないし、もともとあったもののうちに分類されるかもしれない。けど、それともやっぱりぜんぜん別のもので、用意されていた心の動き方とも逸れていくべきして逸れていったもの。それは、良くも悪くも、正しくも正しくなくとも、仕方なく、手によってさぐりあてられた。手は持っていた、持っていたのにそれが何か分からないのは無責任だと感じ、持っていたものを見た。

2023.04.19

結局、小さないくつかのことの、小さないくつかの問題が何なのか立ち止まったり戻ったり確認するうちに、こういうふうに後ろ倒しになる。今日提出の1件+2件もまだ。余裕をもって立てたほうの見通し通り、2件+2件+2件、+1件、そのほか、が明日以降になる。今日の分も、またぎりぎりになってしまう。

話のなかで概ねうんうんと思っていて、ひとつだけ、ここでいきなり認識がずれる感じがあり、これが何なのか、なぜいつもこうなるのか、どこでこうなったのか考えながら、自転車を置いたところを探しながら1時間くらい歩いた。言葉の意味の取り方がやっぱりそれぞれ違っていて、それぞれの立場からものごとを見ながらその言葉をつかっていくなかで、お互い出てくる言葉が唐突に思えたり、なぜなのかわからず、自分のもとの目的をちょっと見失う。今日違和感を感じたのはずっと前と同じ場所で、その時よりうまくずれている場所を見つけられるようになったと思った。

急いだ時間があって、タクシーに久しぶりに乗ったら酔った。

2023.04.18

前半良くて、ハヤシライスをつくったりもして、洗濯その他もして、かなり後回しにしていた自分のエリアの作業もしたら、後半ぱたっとだめになった。休憩して、答えて、合間のことをして、なんとか1つ終わった。どこかで思っていたように、明日、できなかった2件、3件。

ざっくりでも見てもらえるものを準備していたら余裕が出来てよかった。あたためていたものを今回やってみても良いかもしれず、よかったと思った。

家のことは、私の関わり方がぶつ切りになる。このことも大きく、また、まだこんなふうかと思う。またやり方を少し調整する。夜になって、前より進んだと思う。ギリギリになって明日話すことを事前に話せた。内容はいつもと同じ感じだけど、それで這うように進んでいったらいいのだと思う。細かなことを全部やめて待つ時間に充てたほうがいいのではないか、とまた思ってみる、そのあいだで今の位置をとる。

2023.04.18

体質なのか、予兆が何ヶ月かつづいた後、ここ1、2か月でガタガタに身体の中が変わってしまい、リズムが一時的に消えてしまった。年齢的にはまだ少し早いので、という話を受けて、理屈的には治療を受けて再開すると頭では分かっているのだけど、感覚的に生理が「来る」感じ、その前後のあのそれぞれの繊細で規則正しい、にくにくしく自分の内側から自分に迫ってくる変化がなく、これからもないんじゃないかと規則から外れて浮いた感じ。身体的には、だるく重いのにふわふわして浮かびそうで気持ち悪い。

これも一種の自閉的な時間なのかもしれない、と思った。こういう感覚はわたしにとっては貴重だから記録しておきたい気持ちになった。

今日は大事な打ち合わせ。その前にざっくり調べてアイデア出しておきたい。別件で聞きたいこともあるのでまとめたい。その前に返事、作業、いくつか。

ほかは、1件仕上げる。できれば他2件も。人に会ったりやりとりした後自分に戻ってくるまでの時間がわたしはかなり要る。これら3件がざわざわしてできなかった。細かいこといくつか。

自分のエリアの企画、下書き、お知らせ。ほか、返事、細かい作業、返事、返事、返事。簡単なのにわたしにとっては力がいる作業、ひとつかふたつ。←これらにかける時間について、優先順位についてが、いつも、課題。

明日午前中に家族の件で面談。朝か今日の合間に話すことをざっくりメモしたい。昼婦人科。帰って、今日の残りと打ち合わせ後の作業、ほかに来るものに答える。

仕事の流れも家のことも、ぜんぶ自分の生理にサイクルに合わせてバランスをとろうとしていたため、頼りになる杖を失ったようでさびしさと心配がある。同時に、別の外の波に合わせているつもりだったため、そうでもなかったんだと、芯のところは自分のコンディションに合わせていたんだと、見方が変わった。肌への影響がかなり気になる。

5月末からの動きも、不安で、準備したい。ひとつおかしくなるとかなりおかしくなると分かっているので、出来る範囲で助けになるものにつながれているはずと思う。自分が判断するための足場を適切な状態にしておきたい、という気持ちが強い。その足場は表層的で把握できたり見える部分のさらに奥にもあるという「感じ」が少しだけ具体的に理解できてきた。

切るのが面倒で、すりおろす作業が好きで、にんじんをすりおろしたりした。

 

パスカルキニャール 小川美登里『秘められた生』(水声社

自分の秘密を知るようなつもりで読んでいる、ぶつ切りで。

2023.04.15

トニー滝谷市川準/監督

 

ぼろぼろ泣いてしまった。セリフの演出も、ドキッとする。
服を買いすぎる女と孤独な男の話で、依存によって、強迫によって生きのびるうちがわにある空っぽさが滲み出していてたまらなかった。
誰かが、できれば自分が、自分を見てくれる人が、後になってでもその空っぽの存在を認めて泣くことが供養になること。空っぽというのはそれが正しく認められるまで膨らみつづけるし、繰り返すし、主張してくる。
はじめから見えていた空っぽがかたちを変えたのか、見るほうが場所を変えて空っぽのうちがわに入ったのか、見たものは秘密を守ることにし、またひとりぼっちになった。見る場所や時を間違うと、侵入された恥ずかしさと間違った罪悪感だけが残る。

ひとりぼっちになって、もう会うことはない。それからがそれぞれの影の部分でふたりが重なってゆく生きた時間だったのだと思う。

書き終えて、映画を観終わったあとの時間もそうなんだと気づく。

「ひとりでつづきを続けるために、時間をとりたいんです」というようなことを、残された男が言っていたと思う。彼にとって必要なその時間と同じ意味の時間を、その男と一緒にいるあいだに彼女は過ごしていたのかなと思う。ゆるやかな搾取も交えながら、自立のためにかけた、一緒にいながらひとりの時間。

2023.04.12

わたしは、あの出来事に関してこれまで感じてきた唯一の罪悪感を消し去った。あれがこの身に起こったのに――せっかくの贈り物を無駄にしてしまうように――それについて何もしなかったという思いを。というのも、わたしが経験したことに関して見いだしうる、あらゆる社会的、心理学的な理由を越えて、何よりも確信している理由がひとつあるからだ。それは、さまざまなことがこの身に起こったのは、それを説明するためなのだということ。

 

それと、わたしの人生の真の目的は、おそらくこういうことでしかないからだ。わたしの体、感覚、思考を、書く行為によって――言い換えれば、一般的に理解できるものによって――ほかの人たちの頭と人生のなかに完全に溶けこむ、わたしの存在にすること。

 

アニー・エルノー 菊池よしみ/訳「事件」(堀茂樹 菊池よしみ/訳『嫉妬/事件』早川書房

 

ふわふわ、ざわざわ、覆ってくるものに理由があるなら、自分がなんでそうしたのか、止まって確認しに戻って見に行かないところにある。それらがずっと霧のように追ってくる。

 

めちゃくちゃ怖い映画を観た。死んだ後、今までひどい行いをしてきたと分かった監督のつくった映画で、でも、ほんとうにきれいな映画だった。カメラは最後に小さな小さな世界へ帰っていった。その物語がぜんぶ内面で起きていることだったと示すように。鳥籠のなかにしまわれた鳥に自らを託しながら、また血にまみれた魚たちから存在を託されながら、水のまんなかに浮かばせられて生きて死んだ者の物語だった。水のないところに逃げる夢をみた。あたたかい沼地、自分の身体に。