好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ
引っ越す前日の夜に少し迷って、浴室に置いていたシャチのおもちゃも詰めた。水族館に行ったときにおみやげで買ったわりとリアルなシャチで、べつにかわいいものでも動くおもちゃというわけでもない。子どももわたしもとくに気に入っていない。このシャチで遊んだ記憶もほとんどない。
引っ越し作業も後半になると、持っていくもの持っていかないものの判断がだんだんあいまいでゆるくなっていく。できるだけ無駄なものは捨てていきたいと思っていたのが、作業するうちに「迷ったら持っていく」感じになっていった。
連れていこうかな。
シャチを箱に詰めるときにこの短歌を思い出した。このシャチをわたしは好きでも嫌いでもなかったし、子どもも大きくなって、これを連れていってももうこれで遊ぶことはないんだろうな。と思いながら箱に詰めた。大げさにいえば、わたしたちとはいつも一定の距離をおいてみまもっていたシャチだったんだなとも思う。
〈他人と一緒に生活をする〉ということが自分の生活のすべてになり、「好き」という自分の感覚は自分が思っていたよりコントロールできると知り、そうやって生活するのが得策という意識になる。
シャチのいた生活をわたしは「好きだった世界」ということもできる。これも連れていこうかな。捨てていくか連れていくか、わずかに気持ちが傾いて連れていくことに決めた。今回は業者にお願いするから、自分ひとりの生活ではないから、連れていってみてもいいかな、今捨てることもないかな。気持ちのどこかに何かしら余剰があって、連れていくことに決めて大丈夫と感じたように思う。連れていっても責任もてるんじゃないかな。
(他人と一緒に生活するなかにいる)自分が好きだった(かもしれない)世界もみんな、今捨てることはない。連れていってみて、もうすこし自分たちのエリアで何かしらのかたちで共存できるのかもしれない。
自分の「好き」を自分でコントロールできないエリアだと決めていたときがあったように思う。そういう頃の自分なら、このシャチは自分には抱え切れないと判断して連れていかなかったように思う。
連れてゆくと決めることで、そうではなかった(かもしれない)ことをすべて自分にとっての「好きだった世界」にすることはできるんだなと思う。
(ただ、連れてゆくと決めるには、連れていくわたしに保証が要る、とも思う。保障も補償も欲しい…とも)