日記

とみいえひろこ/日記

ひとつぶひとつぶ水死なせゆく音として聴けるつめたきわが夜の耳

ひとつぶひとつぶ水死なせゆく音として聴けるつめたきわが夜の耳

なみの亜子『「ロフ」と言うとき』(砂子屋書房

 

なんてきれいで苦しい歌。

周囲におかれた短歌の流れで読むと、この水や音が抽象的なそれでなく、物質としてかたちや重さをもつものを描いたのものだとわかる。

でも、ページをめくっていてこの短歌一首がぽろっと目に入ったとき、ここに書かれている水はなにか自分のなかにあるとりかえしのつかない大きな悔いの存在のように思え、聞こえないその音にひやりとした。冷たい汗が出るような。

自分がいつか死なせて、なお現在も死なせているものがたしかにある。そのように胸を見えない手で重く押されたようでどきりとする。

外側の現象に対して目をつむって、閉じて閉じて受動的になることで感じられるはたらきを言葉にすることで、なにか存在が生々しく動くんだと思う。動いているその存在は目をつむって受け取るということをしている自分ともいえる。その存在は言葉ともいえる。

自分の身体の器官自体って鍛えないとなかなか得体が知れないものだと思う。がんばっても脳とその器官のつなぎの部分までしか意識できず、その意識を鍛えていくことで自由度や感度をすこし広げることができるのかもしれない。

「わが夜の耳」というとき、そのつなぎの部分がわれの意識下でコントロールされていて、聡く自由な「耳」という存在自体はわれからはっきり切り離されているような印象がある。自分の身体に畏れと信頼を寄せて耳の自動的なはたらきに身をまかせることで「死なせゆく音」が聴き取れるのだろう。

 

 

私小説のなかに降るごと小さき雪川面にふうと消えゆくどれも

 

オリーブという名の犬の飼い主は人を殺しにゆきてもどらず

 

くたびれた身体を捨ててゆく心秋のひかりの刷毛の大きさ

 

 

なみの亜子『「ロフ」と言うとき』(砂子屋書房