日記

とみいえひろこ/日記

2021.08.16

もうこの建物にはわたしのほかに誰もいない。いろいろあったけれど最後のほうはみんなしめし合わせたようにばたばたっと出ていった。

右腕の内側にできた小さな赤い穴から秋が入ってきている。じゅくじゅくした液体がかたまっている。すこしにおうのだろう、建物に残っていた犬がわたしの部屋に入ってきて嗅ぎまわり、舐めてくる。そのうちからだが秋に侵食されるのだと思う。

自分のまわりに誰もいなくなったのはほんとうに久しぶりのことだ。犬だけがいつも建物のどこかにはいる。犬のそばで寝て起きて犬のそばで寝て起きて、そういうふうに過ごした。それでも今日の仕事がひと段落した(ことにした)ので、いつものようにデータをコピーしながら自分の髪を抜いている。手と首がずいぶん衰えて遠くなってしまったと思う。髪を抜くたびに手の姿が目に入る。髪の老いてゆく速度はわたしの場合手や首よりゆっくりのようで、目と同じくらい。背中はもう少しゆっくり。腕、額、くるぶし、腰、眉、ふくらはぎ…自分の身体がばらばらに老いてゆき、それぞれの部位の気が済んだタイミングで落葉のように身から離れてゆく。声も、そのうち出なくなるだろう。死んでいくわたしのそばに犬が来てしばらくぐるぐるするだろうか。一度だけ高いつよい声で吠えて、わたしが死んだことを確かめ、犬もこの建物を出ていくだろう。