日記

とみいえひろこ/日記

2023.07.02

国立国際美術館、時間ないけど今日しかないと思ってささっと観に行った。特別展「ホーム・スイート・ホーム」。

再構築、思い出して語り直す、今何もないものを、ここにないものを。見ることは、今見えている視座をもとに私に見えていないものの感触をつくりなおしつづけることだ。と、文字や声と別のやりかたで伝えてくる。久しぶりに展覧会観に行ったので、独特に内面を時間をかけて叩くように入って来る感覚に疲れて、あとで眠たくてたまらなくなった。

アンドレ・ウェクアの顔の絵に惹かれて何度かその場所に戻った。プロセスの重なりと、素材の重なり、組み合わせは、観る私に時間をかけて食い込んできて溶け合って、観る私の内側に時間制や視座の混乱や複雑さ、それらの存在の感じを醸し出す(そして、観られるそちら側に何も残らない。というのもまた「The House」(鎌田友介)のテーマのひとつだった)。

アルミ板? を使って描いたりしたのだったか、定着されていない、紙に沈み込んでいない、生々しい、重い鈍い、どぎつい色に汚れて痛い切ない光。それらに遭い、その光の思い出がいざなったり求めてくるやりかたで今偶然自分が浴びていることの怖さ奇妙さ、暗さに、自分の奥のどこかを絞られるような感覚を持った。

 

「コレクション1 80/90/00/10」、この10年が次の10年にいかに影響しているか、とか、80の苦しい歪つな感じ、後ろめたい感じの独特さ。反発にせよ共鳴や「深化」にせよ、自分や自分たち(自分の周囲何メートルか)の次の10年のことがぜんぜん分からなくて怖いと思った。

観に行って欲しいと思ったものは出来ればそこで買わないと手に入らなくなる、と実感した。ティルマンスのオレンジをつかむ腕の写真、など、など。

ほかのことで、名前のついているものやすでに言い表されていることに惑わされないように、言葉にならない、自分のなかでもあらわされていないことはとりあえず大事にしておいておくようにしないといけないな、と思った。

 

時間をかけるべきだけど、妙にひとつのそんなこだわるところでもない浅いところに時間をついかけすぎな感じがする。ぎりぎり遅れつつ進んで出せた。出せたとも出せていないとも。今日もあらためてつづき。3つのことを私という作り手を媒介に関連させながら線で分けて考えてつくっていくやりかた、など。