きのうも同じ。もう少し行っておきたいし、まだまだある。けど、もう限界、と言って、その日を終えると決める。あるタイミングで突然効率が悪くなりばかばかしくなって、終わろうと決める。
今朝は、延ばし延ばしにしていた書類などができた。昼過ぎの約束まで数時間、ざわざわをしずめようと思う。2、3週間に1回くらい、ここが休みどきだという時間がある。来る。出しっぱなしの本を片付けようと立って、読んで、出しっぱなしのままにしたりした。
書類のうちのひとつをやっていて思ったこと。Aを見ている者、そのそれぞれがいる位置によって、Aの見え方はぜんぜん違う。Aにこれを見せてもいいと思ったので、あとで少し見てもらった。A自身が見るAがいつもいちばん、何をおいても正しいのだとあらためて思う。専門的にみられるもっと外の人がいるとしても、その見立てが果たして現実的にこちらのあらゆる複雑な状態にそぐうかというと、そうじゃない面はすごく多いように、ここまで時間を費やして思う、もういい、と納得がいく。
ごくごく表面的な、これが今自分の役だろうと思われているだろう役、と自分が理解したものに合わせにいってしまったタイミングがあって、ぜんぜんそんなこと思っていないのにやってしまった。安易な方法をとった自分がすごく嫌、というのをきのうから引きずっている。
ふたたびの風はあるべし月の夜の万葉集の匂ひを連れて
男である私が女であるあたしを抱いてゐる椅子
西村美佐子『ダアリア園』
はじめに戻って、時間をゆっくりにして、ごまかしのないところを見直しに行く。ないものにはないものに合う方法がある。いつもひとつだけ、自分で見つけるしかない自分だけの方法や、考え方が。