日記

とみいえひろこ/日記

2023.08.09

「闇のあとの光」カルロス・レイガダス/監督・脚本。映画は観終わってすぐ記しておきたくなる。読むものは長く抱えた後に記しておきたくなる。絵は言葉を失う。写真は筋や関係性や理由としての言葉を掻き立てられる。

この映画の主役は草はら。最初の空が紫だったのは、草はらにたくさん塗り込められた血が雨に癒され(慰められ、冷やされ、守られ、あらわれ)、空気に混じって空に上った、その紫だと思う。犬はいつも何かあるから吠える。草はらの上で風が鳴る、鉦が鳴る、犬が鳴く。犬が鳴くのは、何かがあるから、あったから。草はらに降った雨が泥を生み、やわらかくし、ぬくもりを求めさせる。乾いて固められた草はらの上で、いつも何かが起こる。

草はらはどこにでもある。どこにでもなければならないことになっている。テーブルも浴槽も草はらの代わりだった。殺し合いがあり、血が流れ、ゆるさない、ゆるせない思いが残った。その上でいつも何かが起こり、その下では見えないけれど根が張られている。何かが起こるから、犬は鳴いている。私に聞こえるかどうかは別にして。木が倒れ、雨に降られ、たとえばしかたないという言葉もこうして生み出された。

足場がない人は、草はらの感じに敏感だろう。だから、足場があやうい人が描かれていたのだと思う。根は、もともとそこに張られているものではなく、張るものだということ、そんなには選べないということ、懐が出来ればかすかにかすかに選べる猶予が出来るということを、あらためて思い出す。それは待つということにも似ているとも思う。何を待っていたかはそれが到来したときに理解するということ、どうあがいてもほとんど何の足しにもならない、そうやって引き延ばしながら何かを待つということ。

人の顔を見分けるのがちょっと難しくて、これがこうつながっていてこれはこの人の物語だということが途中でわからなくなったりした。ただ、ぜんぶがざっくり人というものに起こったひとつながりの物語だと思っていたらいいこととも思う。