日記

とみいえひろこ/日記

2023.10.08

保護膜にもなっている。けれど、そこにいつものらなければいけないのがしんどいな、と思う。役割や言葉や、かたちになり目に見えるものがあって、うまくつかめず、自分に関係があると感じることほど、そこに裸で何の役ももたずに姿を見せに行くのが正しいと、助かると、思いこんでいるからだろうか、消耗する。というタイミングがある。

 

韓国の文芸評論においては、「倫理」「道徳」といった言葉が用いられることも少なくなく、およそ文章を書く人は世の中を善に導くために努力すべきという価値観が目に見える形で存在するといってよい。そこには、武より文を重んじてきた歴史の影響を垣間見る思いがする。だからなのか、韓国文学の底流には、苦しむ人たちを描いてこそ文学だという強い信念が存在する。

斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』

 

書くこと、書かれたものを読むことはやっぱりつながりにいくことなのだろうと思う、「今」とされていることから逃れて。言葉になっていることから、社会的役割から逃れて。どうせ戻らなければならない。けれど、できるだけいろいろなものをとっぱらい、吐く方なのか、あるいは吸う方なのか、呼吸して行き来ができるようになるために。

 

役というか、基盤とか本人の様式とか、そういうものをつくっていくための裸だとも。