4年ぶりくらい、一緒にここに来たのは。4年前より何歩も進んだ。4年前はここに来れるかどうかがそもそも分からなかった(もっとも、ここに来れなくても、来なくても、どちらでもいい)。
待っている時間も短くなり、今日は私は外に出ず、自由に待っていていい部屋で、はんぶん寝ながら本を読んだりして待った。足先が冷えて仕方がなかった。
最近、こちらの事情で遅らせていたのに加え、今日も時間がかかる前提で、ほかのことをかなり抑えめにしていた。帰ってきて、ひととおりのことをして、今も長く眠っている。私ひとり、今日は妙に静か。
時間が経って、その人がその人になってきたと私が思って、何度か思ったり話すうちにそういうことになって(同時に、何度も話すたびにどんどん自分の言うことが信用ならなくなる)、だから、たとえば今眠りすぎていることについては、このことについては、これらの状況については、問題とまではいかない、そういうものだ、ということでいいのかどうか、それだけのことだったのか。
私が、迷ったりうまく考えたいと思っているところは、そこではなく、どうやったらこのものらしく、そのものらしく、ただ居られるか、というところかな、と思う。
自転車の鍵を失くしてしまった。
大江健三郎『美しいアナベル・リイ』、『大江健三郎自選短編』など。これは、ここに来るまでのことなどともつながりがあって、今日、自分が読んでどう思うか、どこをどう読むか知りたかったから。自分だけのなかで知る責任があって、私に責任をもつものが私しかいないから。つまり自分の時間をとった。
そしてそれを自分の書いたものを書き直す習慣によって乗り越えることができた、といまになって考えます。そしてそれは小説を書くことのみについてではなく、もっと広く深く、自分が生きることの習慣となったのでした。
(「生きることの習慣(ハビット・オブ・ビーイング)—あとがきとして」より)
「自分が」。自分というものを、独特につくってきてしまった方法で生き—逃れ—させる、押し出す、そういう感じを受けた。「が」と書かれて、言葉によってかたちづくられすっと消える手の感触。間違いであったとしても、自分〈を〉生きさせるために奉仕してきた自分〈が〉生きなければいけないのだろう。何らかの、自分〈が〉いてしまう意味として。