日記

とみいえひろこ/日記

2023.11.28

感情や感覚のようなものについて。たとえば、罪悪感と呼ばれるものに含まれる成分に近いものを感じとって、心当たりがあって、証拠あつめをしてそちらに寄せていく。持っているもので寄せていく手っ取り早い方法は、自分の身をそちらに寄せていくこと。罪悪感と呼ばれるものとこれはぜんぜん違う、と思いながら。罪悪感とも違う、とついにあきらめる。何か説明しきれないもの、表すほどにかけ離れてゆくもの。どんな言葉も(絵や音楽や行動も含まれる)、伝わること、表されることはほぼ何もないのだと、当たり前だけど今さら思う。何もかも過ぎたあとで。あるのは解放とか自由度とか、そういうものなのではと思いはじめる。

 

大野ロベルト『紀貫之 文学と文化の底流を求めて』、分厚い本で、走り読みしているもの。すごくおもしろくてスリリング。この頃は分かりやすく自明に身分の差があったから、誰もが互いに何も通じ合えない、見ているものがまったく違う、という前提も自明だったのでは。心というオールマイティな何かを思い、それをつくりあげていくための種や葉を、別の星に棲むものたち同士かろうじて共有している(ことになっている)時間性のようなものを軸にさぐっていったり見つめていく営みが和歌だと定義してみたんだろうか。軸であり地や天である時間の底のほうをとおしてつながり直すものをつくっていく営みのなかにある私たちを感じていたのだろうか。など、など、すごい人なんだなあということは分かるし、とっても引き込まれる。

 

大江健三郎『恢復する家族』、キャロル・ギリガン 川本隆史 山辺恵理子/訳『もうひとつの声で』など。

今になって、べつに、何も外に今に求めず大江健三郎をずっと読み続けていたらそちらのほうが今良い状況になっていたんじゃないか、そういう世界線もあったのではないか、とも思える。『もうひとつの声で』、お風呂のなかでほぼ眠りながら読んでいたときがあってしっとりしている。ここに書かれていることからもわたしは、わたしたちはもれていて、ひとごとにも感じる、今のところ。