日記

とみいえひろこ/日記

2023.11.07

つまり、生きるということは「自分の行動の責任は全て自分にかかってくるんだ」と恐怖するよりも「自分の行動の責任はすべて自分で負って行くことなんだ」ということに気がついたとき、私はその恐怖から解放され、大人として自由に生きていくことへの希望が見えてきたのである。

佐々木卓司(太宰治人間失格』の章から)(花田春兆/編『日本文学のなかの障害者像 近・現代編』)

 

物語には常にそれぞれの登場人物とともに設定された固有の時間というものが存在すると思いますが、まさにこの瞬間から覚一は彼本来の「時」を刻ませた

花田春兆(同じ本の、どの章か忘れた)

 

このことは、今こうやっていることは、こんなふうなのは、ここから出られないようなのは、どういうことを意味しているんだろう。というようなことをいつも頭の上のほうに置いている。私が私に何を納得させようとしているんだろう。というような問い、遊び、はぐらかし、「固有の時間」を見ているのだろう目。

 

 

スティグマ社会学』『わたしに無害なひと』『見ることの塩』『新井豊美全詩集』など、など。「ガザの美容室」、途切れ途切れに、いろいろな準備をしながら観た。ばらばら、途切れ途切れ、ナラティヴ。言葉にされないことが多く混じって、ゆきさきも正解もそれぞれ異なり、共通するのは常に何らかの準備をひとはしているということだったと思う。来るか来ないかわからない時間を迎えるための。そうして、美容室といういくぶん整った場に自由に来れる人間の物語であるということ、このもっと「下」に見えもしない聞こえもしない悲しみが折り重なっていることこそが、描こうとされていることを受け取れるようでありたい。

…したい、ありたい、と、書ける分くらいの余白を今私は持っている、ということで、準備をするということが希望や祈りという言葉で言い表されるだろうことなのだろう、準備がなんらかのかたちで終えられた後に。