日記

とみいえひろこ/日記

『カッコーの巣の上で』ミロス・フォアマン/監督

カッコーの巣の上でミロス・フォアマン/監督。

・ダンスの時間がとても切なくて、胸に残っている。それぞれが、甘えたい胸に甘えるだけの時間。適切に受け止められる時間。あの時間だけが特別で、軽くて、自由さがあるようで、夢のなかなのにひしひしと現実であるような。

音楽は、ずっと鳴っていた。あのダンスの時間が、音楽をほんとうに聴く時間だった。

・マクマーフィは間の人。間に入ってきてバランスをとる人。掻き回すこともバランスをとることのひとつ。

・最後の水は、溜まりに溜まった涙や、解放を示すかもしれない。マクマーフィが最初にここへ来たときに地面が濡れていたことは、涙や解放の前の時間、後の時間を示すのかもしれない。

レコードや螺旋階段、円になってそれぞれの問題を話し分かち合いを試みる日常のシーン。円のかたちが示すのは、この場所がこういった時間を繰り返し抱え込んできたということ。過去もこれからもマクマーフィーのような間の人が来て去って行った、去って行く。

・この時代はとくに、見た目ですぐに互いに階級が分かる、見えない線が引かれているその線が見える、と見ていて思う。見た目では分からないものを抱えた彼らは、白い着衣に身を包むことを義務付けられることで、外から分かるようにされている。といっても、彼らそれぞれの実態とはまったく関係なく、とりあえずどこにいる人かが外から「分かる」ことが目的。どう扱えばいいか、どの階級なのかはっきり教えて、という意味の「分かりたい、理解したい」。そこでずれるんだな、と思った。現実的で、実存的な、実態を、内部を、分かることに意味のあることを分かりたいのではない人は、ない場合は、多いということ。良いとか悪いとかではなく、ここでずれているみたいなことがすごく多いのか、と思った。