日記

とみいえひろこ/日記

母の眺める窓を

ネクタリン皮ごと切って薄闇のテーブルで食む移動の朝だ

私のこと忘れてほしい、思いっきり。母の眺める窓を見ていた

無意識の嘘をつくこと夕暮れは一人で崖を見下ろしている

緩慢な復讐として冬空は漆黒の穴を広げてゆくか

消息をふっつりこのまま絶てそうだコウモリ埋め尽くしてく夕空

かなたまで来てしまったね夕風は路地から路地へ猫を流れる

体温を忘れあってはそれぞれに流れる川の右岸で暮らす

お互いのために、いえ、私のために車窓は母を置き去りにする

生きているけれど会わずに過ごす日々マンダリン色の爪光らせて

もう一度抱きしめるときこの胸を静かによぎる冬のキャラバン

 

 

歌集を読むなかでネクタリンとは二度出会う。ネクタリンティーもネクタリンとして数えるなら三度。旅で不意に出会う一度きりのネクタリン、生活の場で出会いこれからも出会うだろうネクタリン、これからの出会いと出会えなさを思いながら飲むネクタリンティー

 

「母の眺める窓を見ていた」。母の見方や眺め方、それは母という他人の価値観や評価軸ともいえるけれど、この位置にいる私をねじまげてでもそこに合わせる必要があると感じてしまう。という身についた小さな癖。句点でぶつっと切れる上句とのつながりに、たとえばこんな背景も想像してしまうし、さまざまな選択肢や道すじのひとつとして、自分に引きつけて読んだ上で、分かる。この歌集に書かれていることを私もぜんぶ分かると思う。もちろんすべてが固有の経験でひとりで抱えるべきものなのだから外にいる私などにはまったく分からない、分からないでいるべきものだけど、自分が生まれた成り行きが人との関係のなかでしかなかったことで、だから、それでも、苦しくも、人との関係のなかで成り行きを見つめ直しつくりなおしていく闘いのようなものを抱えてしまう。そのことは分かると思うし同じだとも思ってしまうし、嫌だとも情けないとも思う。酔いたくないとも思う。

私がとても長く見ていた窓。その窓の見方、眺め方が変わっていくまでを律儀にこらえて見守るような時間のなかにある歌集だと思った。ぎしぎしと位置を変えたり、ときにここからいなくなったりして、私が私を待たなければならない。

 

窓から車窓に戻ってくる。明らかな意味づけをして。

消息を絶ってもよかったが戻ってくる。それでもその場でネクタリンともう一度会うことになり、毎年その季節に生活の続きに会うだろうことを受け容れる。しかもなお、その不自由のなかでものを思う自由をネクタリンティーの時間にみつける余裕を見出す。

「無意識の嘘」をたとえば回避という方法として名付けるなら、窓を通さずに裸の崖を見る、そういう時間をもつための、遠回りで確実な、これ以上ない方法だと思う。嘘という窓を通して崖を見る時間は、過ぎてゆき過ぎてしまった時間が抱きとめられている、静かで穏やかな、見下ろしているこの一人だけの自由な時空間に思える。「もう一度抱きしめるとき」を自分に認めてゆるすまでの。ここまで書いて、「静かによぎる冬のキャラバン」に出会う。胸に、内側に窓がすでに備わっていたことに気づく。

 

 

中井スピカ『ネクタリン』(本阿弥書店