ピエール・パシェ 根本美作子/訳『母の前で』。とくに後半になって私にはすごくよく、分かる気すらしてしまい、引き込まれて読んだ。ひとつの位置から、あるひとつの流動的な関係が、適切に、近づいたり遠ざかったり、うちに入れたり取り出したりしながらよく観察されたものを、とても的確に記されるとこういった事実になるんだと思った。途切れ途切れで読んだので、もう一度読み直したりしている。
曜日がわからなくなり、土曜か月曜を軸に時間を把握することができなくなった。
そうなったら、あなたの時間の調整を引き受けてくれるだれかの好意に身を委ねるべきだ
次第に彼女は待ち合わせがあると想像するようになっていった。あり得ない時間にそうした約束のためにでかけようとし、一人で生きていくことができなくなり、それを認めることを拒んだ。
こうして徐々に無気力になり、自分自身の面倒を見る可能性を奪われて、彼女は今日自分が深くはまり込んでしまった依存の状態に陥ってしまった。時間はもう、彼女が言うことを聞かせていた敵であるだけではなくなった。時間は彼女を打ち負かし、長い一日と長い夜が日々続いていくなかに彼女を閉じ込めてしまった。彼女はもう夜と昼間を見分けることができず、指標を失い、時間に弄ばれている。
つまり自分自身の考えに弄ばれている。あるいはフレーズを口にしたいという意志、話しかけたいという欲望、言葉をかけられているような気持ち、なにか言うことがあるという気持ちに弄ばれている。
彼女の抱えるものの表れ、彼女が表現しているもの、彼女が「わたし」に見せているももの、ぜんぶまとめてなんとなく「認知症」と呼ばれるだろうか、私には、あらゆる疾患名、特性(とされたもの)が綿密に組み合わさったり順番にきれいに出てそのひとの最後の道をかたちづくっているさまを見ているような気持ちになった。
この位置から見た事実、この位置にある目の前に起こる表現が、ただ、ある事実として、ある表現として、伝わってくる。(見る場所を固定された上で名付けられた)名前としてでなく、その人自身の内面としてでもなく。
こういう文章からたとえば、「もう、この時点でこのひとをコントロールする者、手綱を握っている者が変わってしまった」とこの位置にいる者が確信するとき、「依存」の状態にいると言い表されるんだなとよく分かる。
どこかへ行きたがるもの、指向性/志向性、itを抱えているのがその人それぞれだとして、どこへどう向かうかだったり、向かわせないかだったり、itに突き刺されるのを受け止めるものになろうとするかだったり…たたかったり平らかに抑えたり、そういうことを起こす場所として機能させるのがそれぞれの、仕事、責任、生き方、と呼ばれるものになるのかと、痛みや傷つき、苦しみが生まれるのかと思いながら、こう書いたことで何か別に思ったことを忘れてしまった。