喉白く五月のさより食みゐるはわれをこの世に送りし器
月光の階昇りゆく魚にして瓦斯の火持てる母の照らせる
あかときを音高まれる時計にて父母なきものはいのちするどし
必要があって、もらった時間内でバロック様式のことを少し調べていた。『バロックの光と闇』(高階秀爾)はすごく良くて、目が開かれるような思いで読んでいる。レンブラントの描きうつすあけすけ、あけっぴろげな疲れの良さが、描く理由が分かったと思って突然好きになった。そのほかのひとも。奇妙な、歪んだ、くたくたに使い果たされくたびれた真実を見つめるためのこっけいなくらいな工夫を重ね続けたひとら。この本と同じ時期に読むとなく読んでいた歌集。
『バロックの光と闇』の
(ルネサンス時代は)現実は不完全なものであるからそれを完全なものに高めなければならないという理想化の美学が強く働いていたからである。それに対して、バロックの画家たちは真実こそが美であるという強固な信念に基づいて、一見平凡な、時に醜いと思われるような対象をもありのままに描き出すことに情熱を傾けた。
という文章が頭に入っていると、書かれている何か、意味みたいなものを理解しようとするような読み方でなく、歌の形式のなかにかっちり容れられたなかで起こる言葉と言葉の緊密で緊迫感あふれるつながりの隙間それ自体が、光と闇としてからだに入ってくるような読み方になる。
このように現実がある、現実のなかにこの私もいるという、参加しているという。ふと嘘くさく、巻き込まれ望んで分け入った影のそのまんなかで立ち尽くし、ありもしない、はかない言葉を取り去って……取り去れず、取り去ろうとするときに透明の手が現れる。
光と闇に心を縛られ奪われ、なんとか残ったこの未熟な目に見えるまま、見えるままの歪み自体をいやに熱い指で撫でとろうとする、そのときにさらに動いて歪む輪郭にしがみついて描く、うつしとる、刻む、輪郭に置いていかれてふといっときひとりになる。ひとりになったのにそれでも闇に包まれていて、輪郭がどんどん現れる。
透明の手がこのあたりに備わっていることを信じて、疑い、愛憎入り混じりながらとりあえず手を信じるということをして、影のなかで動かす。指だけが輪郭の感触に触れるときがあり、あるひとつの真実の横顔が真っ暗ななかで顔を見せる。一瞬、闇のなかにありのままに描き出されるそれを、真実として指は理解したい。光として闇に分け入る指。
名前もつまらない思いも、あることにして飲み込んでいる約束ごともすべて、ふと脇に置く、置こうとする、絶対に振り払えないと分かっていながら振り払おうとする手が、そのうちその、振り払えないで空を切ること自体に含まれる真実を探し当てようとするなかに流れつづける時間のような詠み方、生まれてしまったものごとの眺め方、関係の持ち方。